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カレン・ホーナイ『自己分析』④

第一章 自己分析の可能性と有望性
  • 自己分析のために悪化する心配はないか

専門家の指導のもと行われない自己分析に危険はないのだろうか?

自己分析は人を不健全な方向に内省的にさせる、という見解がある。

その見解は、「環境や社会の中で個人の感情を抑圧する自己犠牲の奉仕が美徳である」という人生観によるものである。

そういう人生観においては、自分のことを考えすぎるのはわがままであり利己的である、とされる。

一方、精神分析家たちは、他者に対する責任だけでなく、自分に対する責任も強調する。

つまり、幸福追求(心の自由と自律が成長発達することを尊重する権利を含む)という個人の権利も重視する。

前者のような価値観を取ると決心する人にとっては、自分の問題に気を払うのはよろしくないため、分析もあまり意味がない。

後者の哲学を選択した者にとっては、内省に価値を見出さないことはないはずだ。

なぜなら、その人にとっては自己を探求することは、人生のその他の真理を追求することと同じくらい重要なことだからだ。

そういう人にとって気がかりなのは、内省が有益か無益かということであり、その内省がよりよい人間になろうという意欲のもとになされるならば、有益であると筆者は言う。

内省が自己認識や自己改造という最終目標のための真面目な手段であれば建設的である。

もし内省それ自体が目的化するようであれば、「心理学マニア」にしかならず、自己礼讃・自己憐憫・堂々巡りの沈黙思考に終わるなら無益である。

では、こういった無益で不健全な内省に、果たして自己分析は陥るのであろうか?

筆者は経験上、自己分析でそういった危険に負ける人は、分析者と共に精神分析を行なった場合でも絶えず袋小路に迷い込む傾向にある、と推測する。

(むしろ自己分析の限界という観点で、自己分析の実施を検討するべきである)

 

自己分析は個人に決定的な損傷を与える危険性を伴うか?ということも考慮しなければならない。

自己分析によって自分一人では対処できない無意識の葛藤を掘り当て、抑うつや自殺につながるような絶望が生じないだろうか?

この損傷、というものを考える際は、一時性のものと永続性のものを区別する必要がある。

一時性の障害は、分析者と共に行う場合でも生じやすい。

分析によって抑圧された感情が掘り起こされ、防衛機制によって和らげられていた不安が掻き立てられるのだ。これは自己分析でも生じ得る。

しかし、分析によって得られた洞察が自分のものになると、一歩前進したという感情に取って代わられ、こういった一時性の障害は消退する。

このショック状態の時、患者は分析者の手を特に欲しがる。

では自分一人でこれを乗り越えられないか、あるいはそのショックが永続し破滅的な行動に出てしまうのか、というとそうではない。

筆者の経験上、どんな種類の分析でも、患者はまだ受け入れられない洞察からは正面と向き合わないようにするからだ。

そのような分析に対する防衛機制のおかげで、自己分析は分析者と行う分析よりもむしろ危険性は低い。

繰り返しになるが、自己分析においては問題回避の度合いが強いために実りが少ない、ということが問題である。

もしまったく独力で、ある画期的な洞察に直面したとしたら、彼としては独りでそれに立ち向かう以外に道はない。あるいは、他に原因を転嫁することによってその洞察には当たらずさわらずにしようとの誘惑を、用心深く弱めていくよりほかはない。

  • 自己分析から何が得られるか

ここまでの話をまとめると、自己分析が積極的な損傷をもたらす危険性は比較的低く、分析の失敗や分析期間の長期化といった弱点がある。

それらはさておいても、自己分析ができる人には収穫(内面的力の増大と自己信頼感の増進)が約束されている。

また、自分自身の積極性・勇気・忍耐によって問題を解決したとなれば、自分にとっての誇りとなり、自然と自信が生まれる。

 

社会に対する責任と同時に、自分に対する責任がある、という考え方は目から鱗が落ちるようだった。

自分の幸福追求権は自分にしか与えられていないのだから、自分を幸せにするのは自分の責任である、なるほどなあ。

記事では省略しているが、本の中では分析者と一緒に行う分析の"つなぎ"としての面が強調されている。

僕は最初から精神科医とやる分析を受ける金も時間もないし、その点は諦めているけど、だからこそ正直になれる面もあると思うし、一層の勇気と積極性を持って自己分析に臨まなくてはいけないな。