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カレン・ホーナイ『自己分析』③

第一章 自己分析の可能性と有望性
  • 自己分析は可能か

精神分析の成功の鍵を握るのは、患者の協力的姿勢である。

つまり、患者が誠実さをもって自分のことを語る(=自己表現する)ことができれば、分析者と患者との共同作業の意義が大きくなる。

精神分析療法において、患者の精神活動の重要性が取り沙汰されるのは、何らかの事情で患者が精神分析を中断しなければならなくなった時である。

分析を中断して時間が経過したあと、患者が精神的に成長していることがある。

その理由はいくつか考えられるが、確実に言えることは「潜在的な精神活動が患者自身の身に起こった」ということである。

潜在的な精神活動を妨げる「抵抗」が無いほど、あるいは解放への意欲があるほど、分析はうまくいく。

  • 自己分析の成否は分析への意欲いかんにある

自己分析は不可能なのか?という問いは、「人は自分を知り得るか」という古代からの問いと広い意味合いでは同じである。

世に出ている自己分析の本は、自己分析の複雑性には言及せず、自己を知ることは容易いと述べる。

しかし、経験豊富な分析者は、そのような楽観主義にはかられることはない。

なぜなら、患者が自分の問題に正面から向き合うまでによく誤魔化しをする、ということを経験的に知っているからだ。

そのような分析者は、患者が自己分析の過程に点在する諸障害を独力で克服していく、ということに対して懐疑的である。

著者が患者の意欲を重要視するのは、結局自己分析が患者自身の能力だけに任せられるからである。

患者の中には「分析者からの愛情を受けたいから分析を続け、分析者を喜ばせようとする」者がいる。

しかしそのような潜在的な対人恐怖から来る動機は、分析に利用されるべきではなくむしろ分析の対象となるべきである。

したがって、残される唯一の意欲は、現在の苦しみから逃れたいという、患者の念願だけということになる。

著者は分析への意欲を高めるために、次のように分析目標を設定している。

分析とは個人を内なる束縛から解放させて、彼自身の潜在能力を最高度に発揮させること

自分の才能がどのようなものであれ、成長しようとする意欲が患者にあれば、上のような目標は価値が出てくる。

では、自己分析に対する意欲が十分あっても、専門的な知識や経験に欠ける素人が自己分析を成し遂げられるのだろうか?

あるいは、そのような専門家の武器の代用品となるものをこの本に記すことはできないのだろうか?

しかし、そんな代用品は存在しない。

一見行き詰まってしまったように思えるが、all or nothingの考えを適用するには慎重になる必要がある。

政治家だけに政治がわかるとか、庭師だけが植木の刈り込みをできるとか、そういった専門への信頼は盲目的な尊敬の念に変わりやすく、ともすれば新しい活動への意欲を鈍らせてしまいやすい。

専門家の役割を適切に尊重することは大切だが、極度に尊重しすぎると「誰でもやろうと思えばやれる」という気持ちが損なわれる。

精神分析を行おうとする者(分析者)に求められる要件は、三つある。

①多方面にわたる心理学知識、②深い心を感受する「第六感」ともいうべき能力、③分析者自身の徹底的な自己認識、である。

われわれ一人ひとりの世界は自分にとって未知のものではないという点で、自己分析は担任を分析するのとは本質的に異なっている。

よって、自己分析での要件は上の要件とは違い、他人を分析するときほどの心理学知識(①)や、他人を分析するのに必要な戦略的技術(②)は不要である。

自己分析の難しさは、技術的なものではなく、無意識的欲求に対して我々を盲目的にしてしまう感情的要因にある。

このような理由に加え、著者は自己分析の成功例を見てきた経験から、自己分析が不可能であるという証明にはならないとする。

 

長くなって疲れたので一旦ここまで。

自分の成長したいという意欲によって自己分析の成否が決まる、というのは勇気づけられる話だ。

分析者に愛されるために分析者を喜ばせようとする、のくだりは読んでいて似たようなことが思い当たった。

専門家でなくてもやろうと思えばできる、という考え方は、自己分析に限らず大切だなと思った。

この本が書かれた当時と比べますます専門性が高まる世界で、自分が専門でない範囲もどんどん広がっていくということだから。