孤独感、人間性、幸福度
眠れない夜にずっと考えて、ある程度考えがまとまったので、書き残す。
知り合いのクリニックに手伝いに行ってきた。
今年の春にうちの病院から独立したO先生のクリニックだ。
院長であるO先生と、外科医の先生、ナース二人がその日の出勤で、ぼく以外に同じくうちの病院のS先生、そして受付にS先生の娘さんが手伝いに来ていた。
ぼくが異性に飢えていることもあったけど、それを抜きにしてもとてもかわいい人だった。
今まで会ってきた人の中で一番目が綺麗だった。
この人といい感じになりたいな、と思ったけど、そんなことは叶わないだろう、ということも今までの経験から同時にわかってしまう。
これだけかわいいんだから、彼氏の一人や二人いるだろうな、と勝手に思った。
母親であるS先生の前でスケベ心を見せて、それを見透かされるのも嫌だったので(自意識過剰だと思う)、積極的には話しかけなかった。
それでもつい視線を送ってしまうくらいには見目麗しくて、目が合ってしまった時に「こいつ無言でジロジロ見てきてキモいな」と思われていると思うと、マジで自分がキモくて嫌になった。
昼になって、O先生から「人数分の昼飯買ってきて」「何がいい?」と言われた。
ぼくはご馳走してもらう立場だったから、本当に何でもよくて、「何でもいいです」と言ったのだが、周りの人もみんな「何でもいい」と言った。
まあ、こういうのは往々にして何でもよくはなくて、自分の欲しているものを解らないだけなのだが。
「何でもいいなら行くの楽だから下にあるローソンになっちゃいますよ」とぼくが言ったら、「ローソンになんか行ったら(ナースから)殺されるぞ」とO先生。
は? じゃあ普段コンビニで飯買わないのかよ?
言い返したい気持ちをグッと堪えて、仕方なく「(駅前) 弁当」などと検索する。
のり弁専門店が近くにあったので、ここはどうかと提案したら「もっと考えろよ、女の子もいるんだからのり弁以外にもあるだろ」とO先生。
ああ、なんかもう嫌だな、と思った。
その女の子たち、どう頑張ったってぼくのこと好きになってくれないんですけど。
「そんなんだからモテないんだよ」と言われているような気すらした。
なんで昼飯買いに行かされるのにこんな嫌な思いしなくちゃいけないんだろう?
なんやかんやでエスニック料理の店に行ってテイクアウトを買ってくることになった。
受付の前を通って外に出るとき、娘さんに「お昼行ってきます」と言ってしまった。
本当は「買いに行ってきます」や「買ってきます」と言いたかったのに。
自分だけ昼飯食ってくるヤバいやつと思われたかも、とエレベーターの中で後悔する。
咄嗟に口が回らないのと、すぐ訂正できない自分が嫌になった。
5分もかからないくらいで、店に到着する。
そこそこ繁盛していたせいか、注文してから15分くらい待った。
出がけに「別の店でも全然いいから」と言われていたので、これだけ時間がかかったらまた怒られるかもな、と思った。
「融通きかせて別の店にしろよ」とかなんとか。
ため息をつきながらクリニックに戻ると、開口一番「おお! ありがとう!」と言われて拍子抜けした。
そこは感謝するのかよ、と思った。
怒られるより全然いいけど、自分がめちゃくちゃ捻くれた人間なことが明らかになってしまった。
昼食を食べるときにマスクを外した娘さんの顔を見たけど、それもやっぱり眩しかった。
午後のオペも終わり、帰る段になって、S先生親子と3人で一緒に帰ることになった。
帰る方角も同じなので、少し気まずいなと思った。
でも、あからさまに別ルートで帰るのも、気まずさを気取られるようで失礼かなと思った。
何より、心身共に疲弊していたので最短ルートで帰りたかった。
本来はぼくが上手いこと話題を提供して場を回すべきなのだろうけど、不能なのでつらかった。
ぼくに届かない声で二人が話していると、むしろ気を遣ってくれてないことがわかって気楽になれた。
そんなことがあって、孤独感が募った一日だった。
もしぼくに彼女がいたら、娘さんに可能性などはなから感じずに、もっと気楽に接することができたかもしれない。
夕飯を食べる気にもなれず、布団に潜った。
そして目が覚めて、これを書いている。
思えば、ずっと寂しい。
職場にいても、実家に帰っても、数少ない友だちと飲んでも、ずっと寂しい。
仕事が忙しいと昼食を食べ忘れてしまうようなもので、誰かと会っていればいっとき寂しさに目を向けなくても済むんだけど、今回みたいに誰かと会っていても距離感を感じてしまうことはあって、そういうときの寂しさは一人でいるときのそれよりずっと強い。
一人でいるなら自分のために金使えば、と言う人もいるけど、金を使っても使わなくても寂しさは変わらない。
この前金沢に旅行してよくわかった。
だから一人で特別なものを食べたいとも思わないし、S先生とO先生が年末年始に旅行に行く話を聞いていて景気の良い話だなとしか思わなかった。
どうなったら寂しくないのかな、と考えると、やっぱり一緒に寝られる人がいるかどうかがぼくにとって大きいのだと思う。
寝相とかは考慮しないで。
毎日のシングルベッドは、びっくりするぐらいだだっ広い。
ただ、この眠れない夜に考えたのは、果たして寂しいと不幸なのか、ということだ。
結論としては、おそらく違うだろうと考える。
よく言われることに「人は誰でも独りだ」というのがある。
かっこつけた言葉だとは思うが、そう思うびっくりが一定数いるから繰り返し言われるのだろう。
他の人もぼくと同じように(大小はあれど)寂しさを抱えて生きているとすると、幸せに生きている人の数が寂しくない人の数に比べて多すぎる、気がする。
要は、2×2のマトリックスがあって、孤独感と幸福度は別の軸なのではないだろうか。
また、「人は誰でも独り」の続きとして、「
いつもそばにいるのは自分だけ」ということもまあまあよく言われる。
これは主に自己肯定感、「だから自分で自分のことを好きになろう」といった主張につながってくるわけだが、これもまた別の軸なのではないかと思う。
どんなに優れた人でも周りに人が寄ってくるとは限らないし、上手くクズを隠していることもあるだろう。
自己肯定感が高かったら幸福か、というのもそうではないと思う。
ググってみた感じ相関が強い、みたいなページはいっぱい出てくるけど。
自己肯定感は自分の内面の問題だけど、外部からの影響に対しては無力なので、自己肯定感が高くてもどうしようもないこと、いっぱいあるんじゃないだろうか。
ぼくはずっと、側溝を歩いているような感じだった。
ベースに流れる寂しさに浸っているがゆえに、道路をゆく人より一段低いところから、頭上にある幸福を眺めていた。
手を伸ばしてもそれに届かないのは、自分が根っこに寂しさを抱えているからだと思っていた。
取り繕いの人間関係で側溝に蓋をして、なんとか届くかなと思ったこともあったけど、結局ずっとは続かなかった。
今回みたいに、人前でうまく振る舞えない自分が嫌だった。
自分が好きになれる自分に変わろうとしてもやっぱり無理で、どうしようもなく付き纏う変わらない自分を好きになることもできなかった。
今、改めて思うのは、寂しさは相変わらずある。
一緒の布団で、ともに涙を流せる人ができるまで、この寂しさは続くんだろうと思う。
でも、自己肯定感と幸せに対しての考えは少し変わった。
それらは寂しさとはまた別の問題だ。
ぼくは毎日朝早くから仕事行って、自分の生活を自分で成立させて、毎月貯金もして、真面目だし、そこそこ頭もよくて、短歌もぼちぼち詠めるし、倫理観も持ち合わせていて、総合したらよくやってると思う。
他人の評価は良くないけど、顔を含めた肉体も好きだし、人に言われたことを勝手に気にして落ち込むところや、いつも真っ直ぐには生きられないところも、ぼくという人間らしくていいじゃんと思う。
ぼくという人間性は素晴らしいのに、それに気づかない周りが鈍いのと、それを周りに伝えきれない自分らしさは、もうしょうがないよな、と思う。
ぼくがただ自分のことを完全に好きになれないのは、過去に傷つけた人たち、迷惑をかけた人たちのことがあるからで、その人たちに言われた自分がまだ生きていると気づくと自分にうんざりする。
幸せも、確かに恋人がいる幸せや、子供に心血を注ぐ幸せ、金にものを言わせて贅の限りを尽くす幸せはない。
でも、五体満足で生まれて、朝天気が良ければ気分もいいし、平和な国でそこそこいい仕事に就けて、100円の菓子パンでも美味いと思えるんだから、十分幸せなんだよね。
自分を自分で撫でてやることだってできる。
そんな感じで考えて、とりあえずしばらくはそんな感じで生きていこうと決意した次第。
三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』
「会話」という現象の中に含まれる二つの要素について、フィクションの中の実例を取り上げて解説する本。
二つの要素→コミュニケーションとマニピュレーション
コミュニケーション;会話によって交わされる約束事
マニピュレーション;会話を通じて相手の心理や行動を操作すること
第一章……コミュニケーションとマニピュレーション、それぞれの概念の説明
第二章……分かりきっていることをコミュニケートする例
第三章……間違っているとわかっていることをあえてコミュニケートする例
第四章……コミュニケーションにならないとわかっているからこそなされる発話
第五章……コミュニケーションが失敗したときに何が起こるか
第六章……本心をコミュニケーションでは伝えずにマニピュレーションする例
第七章……マニピュレーションを介して相手を誘導する例
感想
現実のコミュニケーションに役立てるというよりかは、好きな作品の会話を深く読むことでより好きになるための本、と言う感じがした。
小説、漫画、映画、ゲームと幅広いジャンルから引用されているので、知っている作品が出てくると嬉しかった。
筆者がトランスジェンダーであるためか、マイノリティを扱う作品が多かったように思える(それらの作品に対する筆者の思い入れも特に強く感じた)。
だから筆者の立場としては社会的弱者に寄り添うことが正しくて、そういう作品こそ価値があるとしているのかもしれない。
気に入らなかったのは、「コミュニケーションが失敗したときに弱者側がツケを払わされる」と言う文脈の中で、平然と男女に線引きをして、女性を社会的弱者・男性を社会的強者にしていたこと。
終盤の第七章も、人の内面を善悪で裁こうとしていて、なんだか説教くさく感じた。
そういう倫理的な言及に目を瞑れば、会話とその裏側にある話者の意思、というものについて考える奥深さを知れるいい本だと思う。
特に僕たちのようなアスペは言外のことを察するのが不得手(本書の言い方だと「成立したコミュニケーション」以外が苦手)だから、こういう風な考え方もあるんだと知るのはいいことだと思った。
カレン・ホーナイ『自己分析』④
第一章 自己分析の可能性と有望性
- 自己分析のために悪化する心配はないか
専門家の指導のもと行われない自己分析に危険はないのだろうか?
自己分析は人を不健全な方向に内省的にさせる、という見解がある。
その見解は、「環境や社会の中で個人の感情を抑圧する自己犠牲の奉仕が美徳である」という人生観によるものである。
そういう人生観においては、自分のことを考えすぎるのはわがままであり利己的である、とされる。
一方、精神分析家たちは、他者に対する責任だけでなく、自分に対する責任も強調する。
つまり、幸福追求(心の自由と自律が成長発達することを尊重する権利を含む)という個人の権利も重視する。
前者のような価値観を取ると決心する人にとっては、自分の問題に気を払うのはよろしくないため、分析もあまり意味がない。
後者の哲学を選択した者にとっては、内省に価値を見出さないことはないはずだ。
なぜなら、その人にとっては自己を探求することは、人生のその他の真理を追求することと同じくらい重要なことだからだ。
そういう人にとって気がかりなのは、内省が有益か無益かということであり、その内省がよりよい人間になろうという意欲のもとになされるならば、有益であると筆者は言う。
内省が自己認識や自己改造という最終目標のための真面目な手段であれば建設的である。
もし内省それ自体が目的化するようであれば、「心理学マニア」にしかならず、自己礼讃・自己憐憫・堂々巡りの沈黙思考に終わるなら無益である。
では、こういった無益で不健全な内省に、果たして自己分析は陥るのであろうか?
筆者は経験上、自己分析でそういった危険に負ける人は、分析者と共に精神分析を行なった場合でも絶えず袋小路に迷い込む傾向にある、と推測する。
(むしろ自己分析の限界という観点で、自己分析の実施を検討するべきである)
自己分析は個人に決定的な損傷を与える危険性を伴うか?ということも考慮しなければならない。
自己分析によって自分一人では対処できない無意識の葛藤を掘り当て、抑うつや自殺につながるような絶望が生じないだろうか?
この損傷、というものを考える際は、一時性のものと永続性のものを区別する必要がある。
一時性の障害は、分析者と共に行う場合でも生じやすい。
分析によって抑圧された感情が掘り起こされ、防衛機制によって和らげられていた不安が掻き立てられるのだ。これは自己分析でも生じ得る。
しかし、分析によって得られた洞察が自分のものになると、一歩前進したという感情に取って代わられ、こういった一時性の障害は消退する。
このショック状態の時、患者は分析者の手を特に欲しがる。
では自分一人でこれを乗り越えられないか、あるいはそのショックが永続し破滅的な行動に出てしまうのか、というとそうではない。
筆者の経験上、どんな種類の分析でも、患者はまだ受け入れられない洞察からは正面と向き合わないようにするからだ。
そのような分析に対する防衛機制のおかげで、自己分析は分析者と行う分析よりもむしろ危険性は低い。
繰り返しになるが、自己分析においては問題回避の度合いが強いために実りが少ない、ということが問題である。
もしまったく独力で、ある画期的な洞察に直面したとしたら、彼としては独りでそれに立ち向かう以外に道はない。あるいは、他に原因を転嫁することによってその洞察には当たらずさわらずにしようとの誘惑を、用心深く弱めていくよりほかはない。
- 自己分析から何が得られるか
ここまでの話をまとめると、自己分析が積極的な損傷をもたらす危険性は比較的低く、分析の失敗や分析期間の長期化といった弱点がある。
それらはさておいても、自己分析ができる人には収穫(内面的力の増大と自己信頼感の増進)が約束されている。
また、自分自身の積極性・勇気・忍耐によって問題を解決したとなれば、自分にとっての誇りとなり、自然と自信が生まれる。
社会に対する責任と同時に、自分に対する責任がある、という考え方は目から鱗が落ちるようだった。
自分の幸福追求権は自分にしか与えられていないのだから、自分を幸せにするのは自分の責任である、なるほどなあ。
記事では省略しているが、本の中では分析者と一緒に行う分析の"つなぎ"としての面が強調されている。
僕は最初から精神科医とやる分析を受ける金も時間もないし、その点は諦めているけど、だからこそ正直になれる面もあると思うし、一層の勇気と積極性を持って自己分析に臨まなくてはいけないな。
カレン・ホーナイ『自己分析』③
第一章 自己分析の可能性と有望性
- 自己分析は可能か
精神分析の成功の鍵を握るのは、患者の協力的姿勢である。
つまり、患者が誠実さをもって自分のことを語る(=自己表現する)ことができれば、分析者と患者との共同作業の意義が大きくなる。
精神分析療法において、患者の精神活動の重要性が取り沙汰されるのは、何らかの事情で患者が精神分析を中断しなければならなくなった時である。
分析を中断して時間が経過したあと、患者が精神的に成長していることがある。
その理由はいくつか考えられるが、確実に言えることは「潜在的な精神活動が患者自身の身に起こった」ということである。
潜在的な精神活動を妨げる「抵抗」が無いほど、あるいは解放への意欲があるほど、分析はうまくいく。
- 自己分析の成否は分析への意欲いかんにある
自己分析は不可能なのか?という問いは、「人は自分を知り得るか」という古代からの問いと広い意味合いでは同じである。
世に出ている自己分析の本は、自己分析の複雑性には言及せず、自己を知ることは容易いと述べる。
しかし、経験豊富な分析者は、そのような楽観主義にはかられることはない。
なぜなら、患者が自分の問題に正面から向き合うまでによく誤魔化しをする、ということを経験的に知っているからだ。
そのような分析者は、患者が自己分析の過程に点在する諸障害を独力で克服していく、ということに対して懐疑的である。
著者が患者の意欲を重要視するのは、結局自己分析が患者自身の能力だけに任せられるからである。
患者の中には「分析者からの愛情を受けたいから分析を続け、分析者を喜ばせようとする」者がいる。
しかしそのような潜在的な対人恐怖から来る動機は、分析に利用されるべきではなくむしろ分析の対象となるべきである。
したがって、残される唯一の意欲は、現在の苦しみから逃れたいという、患者の念願だけということになる。
著者は分析への意欲を高めるために、次のように分析目標を設定している。
分析とは個人を内なる束縛から解放させて、彼自身の潜在能力を最高度に発揮させること
自分の才能がどのようなものであれ、成長しようとする意欲が患者にあれば、上のような目標は価値が出てくる。
では、自己分析に対する意欲が十分あっても、専門的な知識や経験に欠ける素人が自己分析を成し遂げられるのだろうか?
あるいは、そのような専門家の武器の代用品となるものをこの本に記すことはできないのだろうか?
しかし、そんな代用品は存在しない。
一見行き詰まってしまったように思えるが、all or nothingの考えを適用するには慎重になる必要がある。
政治家だけに政治がわかるとか、庭師だけが植木の刈り込みをできるとか、そういった専門への信頼は盲目的な尊敬の念に変わりやすく、ともすれば新しい活動への意欲を鈍らせてしまいやすい。
専門家の役割を適切に尊重することは大切だが、極度に尊重しすぎると「誰でもやろうと思えばやれる」という気持ちが損なわれる。
精神分析を行おうとする者(分析者)に求められる要件は、三つある。
①多方面にわたる心理学知識、②深い心を感受する「第六感」ともいうべき能力、③分析者自身の徹底的な自己認識、である。
われわれ一人ひとりの世界は自分にとって未知のものではないという点で、自己分析は担任を分析するのとは本質的に異なっている。
よって、自己分析での要件は上の要件とは違い、他人を分析するときほどの心理学知識(①)や、他人を分析するのに必要な戦略的技術(②)は不要である。
自己分析の難しさは、技術的なものではなく、無意識的欲求に対して我々を盲目的にしてしまう感情的要因にある。
このような理由に加え、著者は自己分析の成功例を見てきた経験から、自己分析が不可能であるという証明にはならないとする。
長くなって疲れたので一旦ここまで。
自分の成長したいという意欲によって自己分析の成否が決まる、というのは勇気づけられる話だ。
分析者に愛されるために分析者を喜ばせようとする、のくだりは読んでいて似たようなことが思い当たった。
専門家でなくてもやろうと思えばできる、という考え方は、自己分析に限らず大切だなと思った。
この本が書かれた当時と比べますます専門性が高まる世界で、自分が専門でない範囲もどんどん広がっていくということだから。
カレン・ホーナイ『自己分析』②
まえがき
- 精神分析の成り立ち
神経症というのは「器官の障害であるがその原因のはっきりしない境界線にある病気」のことで、ヒステリー性けいれん、恐怖症、抑うつ症、麻薬中毒、機能性胃障害などが含まれる。
精神分析により無意識下の原因を除去すれば、それらの症状が治る、と考えられてきた。
のちに、上述したような神経症の症状が認められないにも関わらず性格的に障害を持っている人々が認知され始め、神経症においては性格的障害の有無が重視されるようになった。
ここでいう性格障害、とは例えば「強迫的な優柔不断」「友人・恋人の選択にいつもしくじる」「仕事ができない」といったようなことだ。
しかし、この段階では精神分析の目的は症状の理解・除去であった。
- 精神分析の必要性
精神分析がその人の性格全体の発達を援助するものである、という視点が生まれ、精神分析そのものの重要性が考えられるようになった。
われわれの進歩発達において最も重要なのは「生活」である。
人生における困難(祖国を去らなくてはいけないとか、持病があるとか、孤独であるとかいったこと)や、人生の賜物(友情や善良な人との付き合い、集団協働作業など)全ての経験がわれわれの能力の十分な発現を助けてくれる。
しかし、全ての人がそのような経験に恵まれる訳ではない。
能力を上回る苦難に押し潰され、能力を発揮できずに終わることもある。
精神分析は完璧な方法ではないにせよ、「生活」のような欠点はないため、人格の成長に役立つ方法として一定の地位を築いている。
- 本書の目的
精神分析は社会の中でその重要性を増しているが、全ての人が専門的な精神分析を受けることは不可能である。
そこで精神分析的手法を用いた自己検討=自己分析が重要になってくる。
本書は自己分析の可能性について問題提起をすることが第一目的である。
自己分析の手順についても提起を試みたが、むしろ自己分析への意欲を高めることのほうが狙いである。
自己分析は自己実現の機会を与えてくれる。
換言すると、今まで活用できていなかった潜在能力を伸ばすだけでなく、無駄な強迫行為から解放された健全な統一の取れた人間として能力を発揮するということである。
僕はどちらかといえば性格障害のある側に分類されるかもしれない、と自分で思うところがある。
そういう点ではこの本の恩恵を受けることのできる人間なのだろう。
また、自己分析よりも実際の生活、今ある人との繋がりの方がよっぽど重要であるということは肝に銘じておこうと思った。
カレン・ホーナイ『自己分析』①
われわれ自身のなかの不安、恐怖、憎悪が未解決のままでは、精神分析は身につかない。自分自身の性格を改造するための自己分析の技法を、一般の人たちにもわかるように具体例をあげて解説した。(裏表紙より)
今回から、カレン・ホーナイの著書『自己分析』を読んで感じたことを書いていこうと思う。
これを読もうと思ったきっかけは二つあり、一つは友人に自分の生き方について批判されたことだ。
大雑把に言うと自立していない、他人に依存しているということなのだが、どうやったらそれを改善できるのか、そもそもそれが本当に改善すべきことなのかはわからなかった。
ただ、自分の人生において満たされない感覚は常に付き纏っていて、その原因が僕の内的なものならば、自分を見つめ直すというのは尤もに思えた。
友人からこの本を直接勧められた訳ではなく、もう一つのほうのきっかけがこの本との出会いだ。
僕の好きな歌手に、宇多田ヒカルがいる。
彼女が先日のインタビューで、まさに「自分を愛するということ」について語っていた。
これは奇しくも、僕が友人に言われたことでもあった。
このインタビュー内で、「精神分析に通っている」という話が出ていた。
なるほどこれはいい、と思ったが、あいにく僕には自己分析に週5で通う時間もお金もない。
そこで「精神分析 自分で」と検索してたどり着いたのがこの本だった、というわけだ。
本来は全体を通読してからブログに書くべきなのかもしれないが、いかんせん僕自身心理学の本を読み慣れていないため、内容を理解するのに手間取るところもある。
そのため、内容の読解を忘れないようにするという意味でも、読み進めつつ記事を書いていこうと思う。
訳者によるあとがきによれば、作者のカレン・ホーナイは元々ドイツでフロイト正統派の訓練を受けた精神科医・精神分析学者で、1930年代の初めにアメリカに渡ったのちに古典分析学派と別れたそうだ。
実際、この著作の中でも彼女の考えの元になったであろうフロイト学派に対する言及が多く出現している。
しかし、ホーナイの分析学はそれとは異なるものだと書かれている。
つまり、フロイト分析学で根本的な本能論や人格構造論(イド・自我・超自我)を斥け、人間は性欲・攻撃欲で動くのではなく安定感への欲求で動くとした。
安定感への欲求とは、孤独感や無力感、絶望感として感じられる根元的不安(basic anxiety)を克服しようとすることだ。
そして、その克服の仕方が十に分類される神経症的傾向として現れるという。
ホーナイが神経症的傾向を不安克服の努力の表れと捉え、生きようとする人間のたくましさだとしたことは、読む側としてはたいへん勇気づけられる話である。
次回からは、先頭から読み進めていった内容を書いていこうと思う。